障がい者アートの、今。

アール・ブリュットということばがあります。

正規の絵画教育を受けていない人による絵画という意味で使われることが多い言葉です。

そこから波及して、障がい者アートという意味を持つことがあります。

私は以前、障がい者と言われる人々の制作した絵画と、仕事で関わる機会がありました。
健常者と言われる人々の絵と、ある壁面に並べて実際に展示をしたときに、細部にまで及ぶ精密さや、制作時に込められたであろう根気が、一見して明らかに異なることを、感じずにはいられなかったのが正直な感想でした。

障がい者という言葉自体、その実態が分かりかねているのが、私の素直な思いなのですが。

さて、コンクールという名のもとに、絵画を比較して、賞を授ける場合があります。

受賞者がその後、自分が絵画を制作したことに誇りを抱いたり、また、自分を大事に思う心を育てることには、大きな意味を発揮すると思われるこういった絵画のコンクールですが、しかし、絵画を比較することそのものは、はたしてどのくらい意味があるのでしょうか。

絵画を描く時間というものは、豊かな時間であることに間違いはなく、その時間の経過を通して完成した作品、あるいは完成途中の作品を比較することは、実は相当、難しい作業だと感じています。

障がい者アートというと、障がい者の人々が制作したアート作品や、彼ら彼女たちのデザインをもとにして生まれた製品を集めて販売しているお店が、緩やかな速度ながら街中には増えてきたようです。

お店のスタッフは、障がいを抱える人の親族であったり、障がいを持つ方々が通う施設のスタッフの人であったりと様々であるようです。
素晴らしいお店だと感じます。
足を運ぶと、その店内には温かな空気が、満ち満ちていることを体全体が感じます。

店内には圧倒されてしまうほどセンスの良い作品や製品が数多くあり、商業デザイナーと言われている人々も顔負けであろうと感じてしまいます。

観ていて気持ちが自然に満たされてゆく、心が穏やかになる、また、感動してしまう。

こういった感覚は、美術館で絵画を目の前にしたときに、素直に味わう感覚ですが、障がい者と言われる人々の作品が、こういった力を豊かに備えていることだけは、間違いないようです。

いつの日にか、「障がい者アート」という言葉がなくなり、描き手が誰であろうとも、「素敵な絵だね」という感想だけが、その絵画のそばにふわりふわりと温かくある、という、そんな時代が訪れるといいなと感じます。

その場合、観る人は絵画を観ているのと同時に、絵画に費やされた描き手の気持ちにも触れる機会に恵まれていることを、感じているのだろうと思うのです。

そして、そういう時代は、既にすぐそこまで来ているようにも思われてなりません。

最近ではレンタル絵画なども広く普及しており下記のようなお店も増えてきました。

皆さんも気軽に絵画などに触れてみてはいかがでしょうか。